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広島高等裁判所 昭和37年(う)273号 判決 1968年2月14日

本籍 ○○県○○郡○○町大字○○○○○○○番地

住居 不定

無職 岡野一

大正七年七月一二日生

右の者に対する窃盗・強盗殺人被告事件(原判示第二・第三の各事実)について昭和三七年六月二五日山口地方裁判所が言渡した判決に対し被告人から適法な控訴の申立があったので、当裁判所は審理のうえ次のとおり判決する。

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は記録編綴の弁護人小河虎彦・同小河正儀及び被告人各作成名義の控訴趣意書記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

右各控訴趣意に対する当裁判所の判断は次のとおりである。

一  事実誤認及び原判決引用の被告人の自白には任意性・信用性がないとの各論旨について。

先ず各所論は原判決が被告人において原判示第三の強盗殺人罪(以下単に本件ともいう。)を犯したものと認めたことは誤りであるというにあるが、原判決挙示の関係各証拠を総合して考察すれば、被告人が右の罪を犯したことを認めるに十分であり、当審事実調の結果による原判決の右認定に誤りがあることを疑うに足りる資料はない。各所論は右認定の誤りであることを主張する理由として、特に原判決引用の被告人の検察官に対する各供述調書に記載の供述及び検察官採取の録音テープ中の被告人の供述は、警察での拷問または誘導による自白を基礎に、被告人が検察官から「警察での自白を覆せば、また警察に返して調べ直させる。」と威されてした任意性も信用性もないものである旨主張する。しかし、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載の供述内容を具さに検討し、且つ各捜査段階で採取した録音≪証拠の標目略―以下同じ≫に耳を傾けて仔細にこれらを吟味し、さらに原審証人木下京一・同小島佑男・同友安敏良・同山口信・同世良信正・同橘義幸・同松田博・同西村定信・同西田啓治の各供述記載、当審証人木下京一・同友安敏良・同山口信・同中根寿雄の各供述、当審証人木下京一の供述記載(以下「供述記載」をも単に「供述」と略称することもある。)、押収の捜査日誌(同日誌は原審証人木下京一の供述によれば、同証人の作成にかかるもの。)を合わせ考察すれば、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書に記載の供述竝びに前記各録音中の被告人の供述が主張のような任意性を欠くものとは認められない。もっとも、警察の録音中には聊か執ようにわたる質問や被告人において供述を渋っている点などが聴取されるけれども、被告人の警察での自白は昭和三〇年一一月一一日午後二時過頃被告人自ら進んで真実を述べたいから取調をしてもらいたい旨を申出たことに始まったものであること(同日採取の警察録音第三巻で本件を全面的に自白するまでの前後の状況。)、被告人が供述を渋っているのは、特に初期においては親や子の身辺を案じ且つは過去の非行に対する押えがたい煩悶悔悟の情の然らしめるところであって聞く者をしてさえ涙をそそらせるまで真に迫るもののあることのほか、録音全般を通じて傾聴すれば、右のような質問や供述態度から、警察での取調に際し被告人の供述の任意性を失わせるような拷問脅迫等による不当な圧迫または誘導が行われたものとは認められない(殊に被告人は元警察官で、しかもその自白は極めて重大な犯罪に関するものである。)。また、以上の各供述を原判決挙示の他の関係各証拠に照らして検討すれば、それら各供述の信用性を否定すべきいわれがないばかりでなく、後述のように当審での事実取調の結果をも斟酌して考えると、右各供述は一層信用すべきものであることがわかる。以上の認定に反する被告人の原審以来の供述(その供述は、後記(一)に認定のように真実に反することが明らかであったり、供述に一貫性がないこと、例えば原審第四九回公判では「一二月二五日に長谷峠に行ったときと、熊坂峠に行ったときには拷問がなかった。」旨供述しながら、当審第一三回・第一四回各公判では、長谷峠・熊坂峠に行った際にも極めてひどい拷問を受けた旨供述するなど、被告人の捜査官の取調の不当性に関する供述は公判が進むにつれてその不当内容が次第に増大して行く傾向にあることからしても理解できない。)竝びに原審証人竹内計雄・同岩倉重信・同熊野精太郎・同広戸勝の各供述記載中被告人の供述に副う拷問の事実を推認させるかのような部分は前掲各証拠に照らし採用しがたく、被告人が供述するような拷問と目すべき取調方法がおこなわれたことを認むべき資料とはなし得ない(竹内証人の供述によれば、同人が山口警察署留置場にいたのは三月頃とのことであるが、既にその時分には被告人の訴によるも拷問が行なわれていた事実がなく、また右留置場で被告人と話し合ったのは洗面所で二人だけの時であったなどの点からしても同証人の供述は納得できない。熊野証人・広戸証人の各供述は殆ど同じ頃の状況に関するものでありながら異なるものがあることなどからしても首肯し得ない。さらに前掲木下・友安・山口各証人等の供述によれば、被告人の申出その他の都合により夜に入って取調が始められたときなど一〇時過頃に及ぶこともあったが、そのような場合には翌朝の取調を遅く始めるなどの配慮がなされていたことが認められる。)。したがって被告人の捜査官に対する自白は拷問または誘導による任意性を欠くものであるとの主張はすべて採用できないが、なおこの点に関連する主張の主なるものについて次のとおり判断する(以下当審第一五回・第一六回各公判における弁護人らの弁論で控訴趣意を補充するもののうち重要なものについても合わせて判断する。また被告人は当審第一五回公判で自分の言いたいことは上申書にあるとおりであると供述するので、上申書中の主要な点を引用しつつ判断を示すこととする。)。

(一)  被告人は山口警察署の留置場で拷問による受傷のため二回に亘り医師の診療を受けた事実があるにかかわらず、留置人医療簿にその旨の記載がないこと、うち一回は歯科医の診療を受けたものであるが、そのカルテに治療方法すなわち処方が記載されていないこと、被告人が着用していた衣類が大破して修理してもらった事実があるのにその衣類の行方が不明であること、山口巡査部長が被告人に代りのシャツを与えたことなどは被告人が供述する拷問の事実を推認させるに十分である旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の2・3・4。弁護人小河正儀の論旨一の1。)について。

司法警察員の「被疑者の診療状況について」と題する昭和三二年六月一五日付報告書、留置人診療簿、カルテ二通、原審証人糸永洋・同清水キミヤの各供述記載によれば、被告人は山口警察署留置場で昭和三〇年一二月二日には虫歯の炎症のため済生会病院歯科医師糸永洋の診療を受け、同月二〇日には急性腸カタルのため同病院医師清水キミヤの診療を受けたが、以上の各疾患は如何なる外力の作用にもよるものではなかったこと、当時被告人の身体には何らの受傷の痕跡もなかったこと、右各診療のカルテにはそれぞれ処方の記載があるばかりでなく、当時の山口警察署の留置人診療簿にも明確に右各診療事実についての記載のあることが認められる。してみれば、被告人の当審第一三回公判における前記歯科医の受診に関しての「拷問で熊本刑事あたりにほほをたたかれてはれたんです。それで歯が痛くてやれんからお願いしたわけです。」との供述の如きは全くの虚言というのほかはない。なお、弁護人小河虎彦は糸永歯科医のカルテにキャンフェニックを施用したことに関する記載のないことを論難するが、前記糸永証人の供述によればキャンフェニックを施用したかどうかは判然しないというのであるから、この一事をとらえて拷問事実を推認すべき資料とするわけにはゆかない。また、山口巡査部長が前記留置場にいた被告人に同情して着替のシャツを与えたこと、被告人着用の衣類が古くほころびていたため山口警察署の女子職員に依頼してこれを修理してやったことは原審及び当審証人山口信の各供述によって認め得るが、同証人の供述によれば、留置人が着用している衣類については担当官に保管を委託しない限り留置人名簿にその記載をしない立て前になっていることが認められるので、同名簿に所論の衣類の記載がないことから警察側としてその行方が不明であるとしても、これをもって拷問事実を推認すべき根拠とはなし得ない。

(二)  被告人作成の被害者方家屋の間取り等が事件発生直後の検証現場の状況と一致していることは寧ろ不自然というべきで、右はいずれも捜査官の誘導に従って作成されたものとみるべきであるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第二のイ。弁護人小河正儀の論旨一の1。)について。

原審証人山口信の供述によれば、右の図面はいずれも被告人が任意に作成したものであることが認められる。この点に関し被告人は原審第四九回公判では「私は建築業をやっております。それで田舎の建前は何十軒と言っていい程製材をやっております。それで田舎の建前というものは大体一定した建前でありますので、私は大体の見当をつけて一番初めに私の家に似かよったように、そして隣近所の家とか、あらゆる家を全部比べてみて書きましたです。」と供述しながら、当審第一三回公判では「初め概略は警察官が書いてくれたんです。私が一番不審に思うたのは、牛小屋が長屋の前にあるというのが書いてあって、合わせるのによく納得がいかなかった。」等の旨供述し、その間矛盾があることのほか、同公判での被告人のその余の供述(一五冊五三三九丁以下の「一四五五丁の図面のように本件の前々日何人かが夜山根方納屋裏で様子を窺っていた際映画帰りの人に発見されたということを捜査段階では聞かされていない。それを聞かされたのは公判になってからである。」旨の点及び「一四四九丁・一四五一丁の鍬のあった場所は私の家から判断してあの辺にあったんだと言った。」旨の点。)に照らし前掲弁護人の主張は採用できない。

(三)  被告人の手記が六年間伏せられてあった事実竝びに原判決引用の被告人の手紙及び和歌は昭和三〇年暮か昭和三一年一月中のものであるのに昭和三六年秋迄秘められておった事実は納得できない旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の八。)について。

しかし記録によれば、右手記は既に昭和三二年一〇月二一日の原審一四回公判で、手紙は昭和三五年一一月二日の原審第四二回公判で、和歌は同年五月一二日の原審第四一回公判で各証拠調が施行されたことが認められる。しかも、原審証人友安敏良の供述記載・司法警察員友安敏良の昭和三五年五月一二日付山口地方検察庁検事土井義明宛「参考資料提出について」と題する書面の記載によれば、右手紙は被告人が山口警察署留置場にいた時分(同手紙の日付として「一月三十日」とあるは他の関係証拠からみて昭和三一年一月三〇日の意と解される。)同署警部友安敏良の次女典子(当時小学二年生)に対し菓子を差入れてもらったお礼として差出された私的なもので、父である右友安により保管されていたもの、また原審証人山口信の供述記載によれば前記和歌は昭和三〇年一二月三〇日頃前記留置場で当時同署勤務の警察官であった右山口証人が正月近くのこととて被告人のひげを剃ってやりながら「今までできたことは仕方がない。これからは人生の一歩を踏み出してやってくれ。」などと話しかけた際、被告人がこれに答えて「今度のことであんたには随分世話になったので、一つ私の心境を書いて差上げようと思う。」と言い。その後もらい受けた留置場看守巡査の手許にあった仮還付請書用紙に当時の心境をしたため右山口に「記念に」と言って残された私的なもので同人の手裡に保管されていたものであり、それらが何らかの事情により特に秘匿されていたものであったことは認められない。そして右手紙・手記・和歌は次のとおりのものである(次に掲記の手記中「終」・「夢」・「邪」・「鐘」・「胸」・「煙」・「皆」・手紙中「静」・「坊」、和歌中「煙」・「境」・「暮」はいずれも原文中には誤字が用いられているが、活字がないため訂正して掲記したもの。その余は原文のまま。)。

(手記)

「私は大正七年七月十二に人の世に生を受け貧乏百姓の長男として生れ父母にかはいがられて一通の教育もさして戴き身心共に壮健で元気一ぱいで社会に出て幸福に送日致して来ました終戦後迄はどうやらこうやら人としての務めをはたして来たと思います二十四年頃より商売の手ちがいから気がいらいらして弱者と成り一ヤク千金の夢を見るように成りやる仕事に永続きが出来ずとうとう世間の皆様へ御迷惑をかけ人としての道をふみはずして自分自心が邪道に足をふみ入れてしまいました。

『人の世に生き行く為にまよい出る黒玉だいてふみ出す一歩』

今度はあのよう事を致しまして何んと言ってよいか書き表す言葉を知しません過ぎし日の事が日夜思い出され片時も頭からはなれた事が有りません毎夜なる鐘のネ遠くから聞こへて来る何かさびしい汽車の音等々数かぎり無い社会の物音を聞く度懺悔の室でたったりすわったりして苦悩集燥して気持を静めようとしてあせって居ます。

『思ふまい思ふまいぞと思えども心のうづきとめようもなし』

日影に狂い咲きかけた花のように生きようとして人としての勝負に負けて叫び悲みもだへもだえて進み行く道に迷い目に見え無い御仏の心を捉えようとして鉛のような重苦しい気持で胸一ぱいに締めつけられて来ます。

『大声で叫びどなりてなげつける狂える心に情さけの言葉』

何か一寸した事にでも興奮して頭のけなどかきむしるような気に成ります時など係官殿の厚い情でなぐさめられ涙が出て来てしかたが有りません此の胸の内を御仏に御願ひ御話して一時も早く仏にすがり懺悔して人としての務をかならずはたして山根様の霊に御詑致します。

『いざさらばわかれの煙草すい修め死での遊路ににじをわたりて』

皆様の情の品を胸にひめわかれのお茶にむせびし吾は

胸に思って居る事を書こうと思いますが書き表らはせません

昭和三十一年一月二十九日

岡部保(指印)」。

(手紙)

「坊ちゃんとつぜんこんな事を書いて御便り差上げますのを許して下さいませ今頃は日本の国は一番寒い時ですねまい日まい日学校に通勤されるのに御ほねがおれる事と思います

私は山口県に生れた人ですが日本全国でいや世界中で一番悪い事をした者ですけれど今はそのつみのつぐないを致そうと思って一生懸命ベンキョウし修養して日本一のえらいぼうさんになろうと思ってまい日小さいへやの中で静かに今迄私の見たり聞たりやって来た事を思い出しては一つ一つ頭に入れて居ますそしてあの時はおもしろかった又あの時はほんとうにかなしかったとか数かぎりない過ぎさって来た事を思いベンキョウをして居ますきっときっと私はえらいぼうさんになって今迄悪い事をしたつみのつぐないをしてせけんの皆様方に心からおはび致しますから其の時は許してほめてやってくださいませ先日はおいしいおかしをたくさんほんとうに有難う御座いましたあのような御か子は何年と云って食べた事は有りませんでした遠い遠い昔、坊ちゃんぐらいの時よく食べて居ました其の時の事を思い出してなつかしくうれしくいただいている中涙が出てしかたが有りませんでしたほんとうに何より有難う御座いました厚く厚く御礼を申し上げます私には一生わすれる事は出来ません今夜は寒い寒い雨がふって居る様ですが御体に気をつけてベンキョウして下さいませ私がえらいぼうさんに成った時は御知せ致しますほんとうにほんとうに有難う御座いました御体に気をつけられまして学校に行ってえらい人に成って下さいませかげながら御いのり致して居ます

さようなら

ぼうさんより

坊ちゃんえ

一月三十日 」。

(和歌)

「一、思えども生れてこの方この吾に老母よろこぶ一つだになし

一、過ぎし日のおも影六つ胸に秘め生きるこの身の苦しき思いは

一、杖ついてあの山こへてみ仏のお家に急ぐなさけの道を

一、我は今身然の景しき見つめつつ遠くへさけぶ胸のうづきを

一、三年前いとし子供の御影をてっさく見つめて身をもお吾は

一、飲べたさに昼夜わすれぬよくの川流れ流れていづくの海へ

一、捕されて初めて逢った其の君に又も無理いふおろかな吾は

一、生れ来て三十七才で胸にシミ思い出すまい人生行路

一、過し日のあの過を胸に秘め六つの影に手を合す日々

悔恨を胸に日々新た己が苦しみ歌にと読みて

一、かたことと雨戸ゆすぶるしとれ雨

一、あの煙りどこがよいのか身にしみる

今はただ御仏の袖に罪み悔つ

父としていたわれずして去り来たるなる石憫涙だ払いつ

今はただ己が罪を懺悔して歌に心境読み暮す君

御仏の袖にすがりて罪を悔い六つの影に手を合す日々」。

以上の各内容から考察して、それらは当時の被告人の真情を吐露したものと認めるのほかなく、捜査段階における被告人の自白の任意性と信用性とを認むべき極めて重要な資料たるを失わない。被告人は原審以来「右はいずれも警察での拷問による取調から一日も早く逃れたいとの念願から自己の心境を偽って作成したものである。」旨主張するが(―中略―なお原審第四一回公判六冊二一六二丁以下の「和歌は昭和三〇年一二月二五日頃から確か翌年一月の一〇日か一五日頃までの間に書いたと思う。」旨の被告人の供述記載と、前掲山口証人の供述記載とによれば、前記和歌は昭和三〇年一二月三〇日頃から翌年一月一五日頃までの間に作成されたものと認められる。)、一方原審四九回公判での被告人の供述によれば、被告人が警察で拷問を受けたというのは昭和三〇年一一月六、七日頃から同年一二月二七、八日頃までの間のことであって、右の手記・手紙・和歌を書いた時分には被告人の供述からしても「一日でも早く拷問による取調から逃れたい念願」が生ずるような状況にあったとはいえない。

(四) 原判決では本件犯行当時被告人が山口地方にきていた証拠として三好宗一・向山寛の各証言を援用しているが、それらはいずれも措信しがたいとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の6、弁護人小河正儀の論旨一の4の(2)。)について。

しかし、右各証人については当審でも取調をした結果同証人らの原審及び当審での被告人に出合った点に関する各供述は十分信用し得るものであることが認められる(但し、証人向山寛の当審での供述によれば、同証人の原審での供述中「石川木工所」とある部分は「日進製材」の間違いであることが明らかである。)。殊に被告人は捜査段階で「井久保の製材所に行って三好という三〇才位の男に岡村のことを尋ねた」旨を述べたことに関し、当審一三回公判で「警察官がどうしても製材所へ行ったと言うんで、一番知らないところの井久保の製材所へ『岡村君はおりませんか』と言うて仕事師に尋ねたら『おらん』と言ったなどの供述内容を創作して言ったわけである。」旨弁解するが、原審第三回公判で証人三好宗一に対し「私は工場へ行ったことはありますが、それは松茸の出る頃ではなく、四月頃と思いますがどうですか。」、「私はその時三人いる中の板をたばねていた人に岡村という人のことを聞いたと思いますが。」、「年度は昭和二八年頃と思います。」、「私は工場の前の道路から直ぐ自転車に乗ったが見ていませんか。」と反対尋問をしていることに照らしただけでも、前掲被告人の弁解は納得できない。なお、弁護人小河虎彦は当審第一五回公判で前記三好証人が被告人から脅迫状めいた書信を受取ったかどうかとの点に関連し、「在監中の被告人が証人に対し脅迫がましい書信などを出し得ないことは明らかである。」旨強調するが、監獄法その他の関係法規を検討するも、拘置監内の被告人から発せられた書信はこれを検閲し得ても、内容の如何によってその発信を制止し得る根拠を見い出し得ない。

(五) 元の内縁の妻川根ヨシ子(仮名)が当時被告人に出合わなかったことは、被告人が山口地方にきていなかったことの証左であるとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の4の(2)。)について。

しかし、被告人の検察官に対する供述によれば「昭和二九年一〇月二二日に以前同棲していた川根ヨシ子方を訪ねて行き『ごめんください川根さん』と声をかけたが、中から返事がなかったので、あるいは情夫でもきていて具合が悪いのかも知れないと思い家に入るのをやめて元きた道を引返した。」というにあって、被告人が当時川根ヨシ子に出合わなかったことをもって山口地方にきていなかったことの証左であるとする主張には賛成できない。なお、当審では被告人が立寄ったという売店等の関係者を取調べたが、それらはもともと被告人の顔を知らないか、当時既に記憶が薄れていた人達ばかりで、同人らの供述によっては、被告人に出合ったかどうか判然しなかった。しかし、石川松埜の司法警察員に対する供述調書、当審証人石川松埜、同石川菊尾、当審各検証調書の各記載を総合すれば、被告人が捜査段階でした「昭和二九年一〇月二四日午后六時頃宮野の新橋の店(角の店)で女の人からパンを買って食べながら仁保に向った。」旨の供述中の店は、昭和二九年六月中旬(被告人は昭和二八年五月頃以来山口地方にきたことがないという。)開業してパン菓子類等を販売していた山口市市会議員石川菊尾の妻石川松埜が経営を管理していた店舗(但し昭和三三年三月閉店)であったことが明らかで、このことはまさしく被告人が本件犯行当時山口地方にきていたことの証左であるとみないわけにはゆかない。

(六) 被告人の大阪におけるアリバイに関係のある山本高十郎の手帳を捜査官が押収しなかったこと、竝びに西村為男・西村君子・水谷武三郎の各証言によれば、被告人は当時大阪にいたものでアリバイが確立しているのに、原判決ではその正確性につき疑問があるとしている点はいずれも納得できないとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の五。弁護人小河正儀の論旨一の4の(1)。)について。

しかし、原審証人山本高十郎・同友安敏良・同熊本清の各供述記載によれば、山本高十郎が所論の手帳を所持していたことは明らかで、これを押取しなかったことをもって同証人らの供述、殊に右山本証人の当時被告人が大阪にいなかったとの点に関する供述の信用性を否定することはできない。また、原審証人水谷武三郎・同西村為男・同西村君子の各供述内容を検討すれば、これらの供述内容をもって当時被告人が大阪にいたものと確認すべき資料にはできないばかりでなく、当審証人西村まさのの供述によれば、かえって当時被告人が一時大阪にいなかったもので、この点に関する同証人(原審当時は西村君子と名乗っていたが、戸籍上は「まさの」が本名。)及び西村為男の原審証人としての各供述はいずれも記憶違いによるものであったことが明らかであり、同各供述に疑いがあるとした原判決の判断には何ら誤りのなかったことが一層明白となったのである。因みに、被告人は上申書中で「捜査陣は古賀はむろん(当人を証人とすることができれば、大阪でのアリバイ一切がうきぼりになる。)、靴屋一家(五人家族)、眼帯の男(私の処で寝起きしていた)、また出入の女等々の住所氏名を知りぬいて隠して出してくれない。」と主張し、さらに当審第一四回公判で以上の人々に関し「警察の一番初めの取調の頃からアリバイですから詳しくメンバーをあげて説明している。」と供述するが、被告人がこれらの人々について言い出したのは昭和四二年一月二七日の当審第一三回公判でのことであるのみならず、右の人々が昭和二九年一〇月二五、六日頃被告人が大阪にいたことを知っている事情に関しての被告人の供述はそれ自体極めて不可解で到底首肯できない(しかも、一五冊五四〇〇丁裏以下では「昭和二九年一〇月当時には古賀はあまり寄りつかなかった。」と述べており、また当時被告人は天王寺公園の小屋で巡礼母子と同棲していたので「眼帯の男」が寝起を共にし得る状況にはなかった。)。

(七) 被告人の郷里と被害者方とは同村でも四粁以上も隔っており、被告人は一度も山根保方付近に行ったことがなく、また同人方一家六人を皆殺しにしなければならない理由も必要もなかったとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第三の(二)・(五)。)について。

被告人は原審第四〇回公判では「牧川部落は人も地形も知らないが、むすび山の上から回りを見たことがあるので、山の手前から見渡せる範囲は知っている。牧川には子供のときから一回も行ったことがない。」旨、原審第四九回公判では「牧川への道は行ったことがないから知らないが、田舎の道は田の畦を通って行けば大体何処にでも行けるということを私は農村出身であるから見当はついていたと同時に、子供の頃むすび山の頂上で木の上に上って遊んだことがあるので、裏側がどんなふうになっておるかということも遠い記憶に残っている。」旨、「自分は本件犯行現場である牧川には以前行ったことがなく全然知らない。しかし汽車の上から見たことはある。」旨各供述し、且つ上申書には「牧川はへんなところで子供の頃から一度も行ったことがない。」旨記載しなから、当審第一四回公判では「牧川は戦前まではよく知っておりましたです。それから戦後はあまり行ったことはありません。と申しますのも牧川のあの部落をつきぬけて鉄道線路の暗渠へ通ずるキドヤマ方面は私たち部落の柴刈場であります。それで青年時代よく通ったことがあります。」というのである。以上によってみれば、被告人はむすび山より奥の牧川方面に生来一度も行ったことがないとの被告人の弁解は到底採用できない。

また、本件犯行に際しての前後の状況に関する被告人の警察以来の各供述を通じて考察すれば、被告人は金品奪取のため山根保方に侵入し、台所土間で誰何された際一時は逃げ出そうとも考えたが、その夜どうしても金を取る気持で一杯であったため「ええくそやってやれ」という気になり結局その目的の実現と証拠隠滅のため同人方一家六人を殺害するに至ったものと認めざるを得ない。(本件については、記録中の被告人が殺人を犯しかねない性格の持主であることを認めさせるような供述記載は事実認定の資に供しない。)

(八) 被告人の捜査官に対する自白は、(1)商売資金を得るため郷里に帰る旅費をパチンコ屋で儲けたとの点、僅か一万円の資金を得るため大阪から山口県に帰る気になったとの点、(2)堀経由で帰郷したとの点、バス賃を十分持っている筈の者が何故に十里の徒歩旅行をしなければならなかったかの点、(3)納屋の引戸をあけて侵入したのにその戸を閉めて逃走路をふさいだことになる点、(4)調理場には脱穀した玄米が山積していたのでそれを持って行くのが自然であるのに何故にその中を通って母屋に入る必要があったかの点、(5)藁繩は何の必要があったかの点において不合理であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第三の(一)、弁護人小河正儀の論旨一の2。)について。

(1)被告人の警察以来の各供述を通じてみれば、被告人は昭和二九年一〇月一九日大阪市内でたまたまパチンコで儲けた金で一杯飲んだことから急に里心がつき、郷里に帰って子供の顔や家の様子を見たり、よい仕事があれば働こうと考えたり、場合によっては両親に商売資金を出させたりするなどの考えであったもので、当初から僅か一万円の資金を得るために帰郷したものとは受け取れない。(2)被告人の警察以来の各供述調書には、被告人は昭和二九年一〇月二〇日夜三田尻から防石鉄道の線路伝いに堀駅に出て同夜同駅構内に寝た旨の記載があり、且つ被告人の司法警察員に対する供述調書中には、右の寝た場所に関し「堀駅構内北側の材木等が積んであるところで、近くに黒いような紙のような物に何かぬったもので屋根が葺いてある小屋のあったことが翌朝みてよく記憶にある。」旨の記載があるところ、原審証人森岡正秋の供述記載・佐波警察署と山口県警察本部長との間の電話聴取書三通の各記載・当審各検証調書の記載によれば、右屋根は堀駅構内北側材木置場の北方にあって昭和二八年七月から八月(被告人は昭和二八年五月以来同地方にきたことがないという。)にかけてルーフィン葺にされた右森岡証人方の屋根にあたることが認められ(以上の各証拠によれば堀駅構内付近にはルーフィン葺の屋根は他にない。また、六冊二二三丁一四行目以下によれば右森岡方家屋は元鶏舎であったものを改造した間口三間・奥行二間位のものである。)、前記被告人の捜査官に対する各供述には裏付がある。被告人はこの点に関し原審第四九回公判で「これはキジア台風だったですが、二六年か二七年に私は大正通りの増本建設に出ておったのであります。それでこの時に住宅を二〇戸堀付近に建てたわけであります。これを私は責任を持っておりました関係上全製材をやったわけであります。この時の図面からいってもみなルーヒンぶきになっておったんであります。それをまとめてトラックで持って行ってあの付近に建てたり、あの付近に流れたらバラックだったら必ずルーヒンでふいた家だとこういうふうに思ったから、当時のことと総合してみて、当時というのは終戦前の私が勤めておったころの状況とにらみ合わせて言うたことなのであります。」と弁解するが、その内容自体から到底採用の余地がないのみならず、右供述からすれば、被告人は職業上の経験から夙に屋根葺用の被告人のいわゆる「ルーヒン」なるものを熟知していた筈であって、前掲供述調書中の「黒いような紙のような物に何かぬったもので葺いてあった。」との表現には直ちに首肯しがたいものがある。さらに、被告人の司法警察員に対する供述調書には「昭和二九年一〇月二一日午前一一時頃八坂の三谷川の橋を渡った所の散髪屋前の店でパン四個位を買ってたべながら歩いた。」旨、検察官に対する供述調書には「昭和二九年一〇月二一日夜あけおきて堀の町をみてから八坂へ出て散髪屋の前の店で女の人からパンを三個位買ってから仁保井開田へ向った。」旨の各供述記載があり、且つ被告人作成の図面中に「十月二十一日この家がパンカッタ所」として表示があるところから、当審において検証の結果、右の店は三谷川橋北詰から東方四軒目の渡辺美太市方に該当することが認められたのである。この点につき被告人は原審第四九回公判で「三谷川橋の所にパン屋があるということは、ここは学校もあるし、旅館もあるし、散髪屋もあるし、昔バスの終点になっておりました。それで町ですからパン屋の一軒ぐらいどこかにあることは私は見当をつけて言ったわけなんであります。」というが、その弁解は前記被告人作成図面中のパン屋の位置とこれに対する当審検証結果とに照らし到底採用の限りでない。さらに、被告人は上申書中で「三谷川の橋のたもとの散髪屋は昭和二九年一〇月頃既になかった。」というが、当審証人新宮直次の供述記載・蔵田敏雄・山本義方・新宮直次の司法警察員に対する各供述調書の記載、新宮直次の住民票謄本の記載によれば、右三谷橋たもとの散髪屋は新宮直次方のことで、同人方では昭和二九年一一月一九日まで三谷川橋のたもとで営業が続けられていたことが認められる。さらに弁護人小河虎彦は当審第三回公判で「三谷川橋は当時仮橋であったのに、被告人の捜査段階での供述が仮橋を通ったという供述になっていないことは不可解である。」旨主張するので検討するに、右各証拠によれば三谷川橋は昭和二六、七年のキジヤ、ルース台風で流失し昭和二九年一二月三〇日に新たな橋が完成(同年一〇月竣工予定が延期された。)するまではその上に架設されていた仮橋が一般の通行に供せられていたことが認められる。しかし、被告人の司法警察員に対する供述調書中には、その供述として「三谷川の橋を渡った。」とあって、「仮橋を渡った。」とはないが、これがためその供述が不可解であるとするには足りない。以上の認定経過に被告人が当時家郷を捨て浮浪生活を続けている身であったことなどを合わせ考えると、三田尻から防石鉄道の線路伝いに堀・八坂を経て徒歩で帰郷したとの被告人の供述は、たとえその間の道のりが所論のとおりであるとしても、真実とみないわけにはゆかない。(3)犯人が侵入口を閉めるということは必ずしも不自然稀有のことではない。なお、被告人は本件の前々夜山根方納屋裏付近で同人方の様子を窺っていた際他人に発見された事実がある。(4)山根保方の納屋に玄米が積んであったことは記録上認め得るが、同所は暗かったうえに被告人は納屋の引戸をあけて入ると直ぐ右折して母屋に通ずる開き戸をあけて台所土間に出たため右の玄米に気がつかなかったものと認められる。それに被告人は最初から米だけを狙うつもりではなかった。(5)被告人の供述によれば「現金をやれない場合には米をやろう。米をやるなら序でに自転車もやれば都合がよいがなあなどといろいろ思案の末牧川に行くことに決めた。そして小屋を出るとき米の袋の口を括ったり自転車の荷張りのときよく繩がいることがあるので、小屋の中をさぐり鋤の柄の方にかかっていた繩の中から取りやすい藁繩をとり、引張ってみたら丈夫そうであったので、これを腰にまいて前の方で一回もじりその端を胴の両横にはせておちないようにして出かけた。」というにあって、その供述が不自然不合理であるとは考えられない。

(九) 被告人の地下足袋は鳶職用山型裏のもので、その買入先は名古屋駅裏の右側の地下足袋店であるのに、原判決が現場の足跡が普通の地下足袋の足跡であることから同駅裏左側にある小崎時一方で買った月星印のものであると断定したことは重大な事実誤認であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の1。弁護人小河正儀の論旨一の3。)について。

しかし、被告人は当時自分が履いていた地下足袋に関し、原審第四一回公判では「一〇文七分の五枚付鳶職が履く地下足袋であった。」旨、同第四九回公判では「自分は警察の取調に際し名古屋で買った地下足袋は鳶職の履く五枚合わせのものであると言ったが、絶対にお前はそんな足袋は買っておらんと言って取りあってくれなかった。」旨、当審第四回公判では「自分の買った地下足袋は四枚はぜの鳶職用のものと思っていた。買った場所は小崎の店よりもまだ先である。その地下足袋の裏は無地で文数もなかったと思う。」旨、当審第一三回公判では「自分は警察の取調に際し名古屋駅裏で買った地下足袋は鳶の足袋でとにかく土方には履かれん四枚はぜのものであることを主張した。」旨及び「自分は警察で最初からあくまでも名古屋駅裏で買った地下足袋は例の普通の地下足袋ではなく、鳶職の履く四枚はぜのものであると申し上げている。」旨各供述するが、警察の録音テープ第二五巻中の被告人の供述には「あれは名古屋で八月に買ったあさひ印で裏は波型であったと思う。」とあり、また当審第一四回公判では「捜査段階における調書中に自分の供述として普通の形の地下足袋と出ておれば、そのとおり自分が言ったかも知れない。」旨供述する(被告人は捜査段階では一貫して普通の地下足袋と供述している。)など一貫しないものがあるのみならず、当審で被告人が地下足袋を買ったと主張する名古屋駅裏の本郷店は、被告人のいう場所や構と必ずしも一致しないし、また当時同店で販売していたという地下足袋は証第三〇号のように裏に極めて明瞭に「大黒足袋」という印と文数がはいっていて、山形及びこれを側面から観察した点で被告人の主張するものとは一致しない。以上は、被告人の当審第一四回公判での「自分はなまかじりながら犯人を捜し出す上に足袋は一番大事な点であることを習っていたので、足跡が問題になって地下足袋のことを聞くんだなと知っていた。」旨の供述を合わせ考えると、被告人は当時自分が履いていた普通の地下足袋の銘柄を忘れているか、ことさらに隠して、これを鳶職用のものであったと強弁しているとしか認められない。なお、原判決の理由中に「証人小崎時一は結局被告人自供の地下足袋を買ったという頃、月星印地下足袋を売っていなかった旨述べている。」旨判示するが、原判決引用の証人小崎時一に対する尋問調書には、その供述として同人方で右の当時月星印地下足袋を販売していた旨の記載があり、しかも同供述記載によれば、当時名古屋駅裏界わいで月星印地下足袋の販売店は他に一軒もなかったことすら認められ、原判決の右判示は誤りであることが明らかであるが、このことは判決に何ら影響がない。

(十) 現場に遺留の藁繩は原田次正の鑑定によれば、農林一〇号種の稲藁を矢野式製繩機で製作したものであるというが、農林一〇号の栽培竝びに栗原式製繩機は当時仁保地方に普及していたもので、これを藤村幾久の農小屋から持ち出したというのは捜査官の誘導にほかならないとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の3。弁護人小河虎彦の論旨第三の(五)。)

しかし、当審証人渡辺繁延の供述その他記録上認められる捜査経過によれば、右藁繩は被告人の自供によってはじめて藤村幾久方の農小屋から持ち出されたことが判明したもので、捜査官の誘導によったものであることを認むべき何らの根拠もない。もっとも当審証人原田次正の供述によれば、右藁繩は農林一〇号であるとは必ずしも断定し得ないが、このことは本件認定を左右するに足りない。

(十一) 唐鍬・包丁が兇行に用いられたことは証拠上明白であるのに、これらに指紋が検出されなかったとの主張(弁護人小河正儀の論旨一の3。)について。

広島県警察技師南熊登の鑑定書・原審証人高橋定視・同鈴山乙夫の各供述記載によれば、右の各物件の柄から指紋が検出されなかったが、それはいずれも脂肪の付着が多いため指紋の隆線が判然しなかったことに原因するものであることが認められるのである。

(十二) 原審証人西田啓二は警察の囮であって、同人は留置人でありながら嘔吐するまでウイスキーを飲んだ事実などがあるのに、同人の供述をもって被告人の自白の裏付としていることは不当であるとの主張(弁護人小河虎彦の論旨第四の7。)について。

しかし、原審証人西田啓二の供述記載によれば、右主張の事実は到底認め得ないのみならず、被告人の当審第一三回公判での供述によれば、被告人が山口警察署留置場で一時西田啓二と同房にいたことがあるのは、被告人から特に「係長に西田のところに入れてくれと頼んだ。」ことによるものであったと認められることなどからして、右弁護人の主張は採用できない。因みに、被告人は昭和三一年一月三〇日夜山口警察署の刑事室で酒を飲ましてもらった旨供述するが、当審証人木下京一の供述に照らし、到底右被告人供述は信用できない。

(十三) 原判決引用の被告人の自白は客観的事実に合致しない。仮にそうでないとしても、右自白以外の各証拠はいずれも事実に反し、畢竟本件における認定資料は被告人の自白のみに帰するので、原判決は憲法第三八条三項に違反するとの主張(弁護人小河正儀の論旨二の1・2、三の1。)について。

原判示第三の事実に関する原判決挙示の被告人の自白が十分信用し得べきものであり、且つその余の挙示の関係各証拠が右自白を補強するに足るものであることは前段までの説示によって明らかなところであり、原判決には所論の違憲はない。殊に当審では記録竝びに新たな事実取調の結果次のことがらだけからでも本件に関する原認定が結局誤りないものであるとの確信を得た。

(1) 本件が昭和二九年一〇月二五日深夜から翌二六日にかけて原判示山根方(牧川部落の奥)で行われたものであるとの被告人の捜査段階における自供は一貫して変らないところであり(その最初は昭和三〇年一一月一一日午后二時過から被告人が自ら進んで取調方を求めて自供した警察の録音テープ第三巻中に採取のもの。)、このことが客観的事実に合致するものであることは証拠上明白であり(原審証人須藤玉枝、同西村肇、同須藤クラ、同堀山栄、同須藤友一の各供述記載。須藤玉枝検察官に対する供述調書。司法警察員の各検証調書。各鑑定書。)、このことは本件認定上特に重要なことがらである。この点に関し被告人は原審以来本件強盗殺人事件の日時及び被害場所は昭和三〇年一一月上旬山口警察署留置場で他の房にいた西村定信から聞いて知ったもので、それに合わせるように警察以来供述したものである。」旨強弁するが(―中略―に「それに警察官の方のいろいろの雰囲気から云々」の点はここで初めて供述されたもので、従前及びその後の各供述内容からみて到底信用できない。)。原審証人西村定信の供述記載によれば「自分は山口警察署留置場にいた時分被告人から仁保の六人殺し事件は何時あったかと開かれただけである。何処であったかは余り新聞を読まないので知らない。」旨、「被告人から仁保の六人殺しの事件は何時あったかと聞かれたとき、僕はその頃は山口にはいないので九月か一〇月の初めじゃないかと答えた。」というにあって、前記被告人の弁解は全く信用できないところであり、さらにこのことに原審証人吉川梅治・同村越晨の各供述によって認められる被告人が昭和二九年一〇月一九日大阪市内で住居侵入・窃盗未遂罪の嫌疑で逮捕された際天王寺警察署留置場で同房の者らに対し「自分は窃盗で入ってきたが、六人殺しの分もばれたかも知れない。向うの出よう次第では仕様がない。今度はちょっと出られん。」などの旨を語った事実竝び当審第一八回公判における被告人の「自分が逮捕されて天王寺警察署に引致された際新聞記者に取り囲まれて山根の事件を知らんかと聞かれたと先に述べたのは、自分の間違いであった。」などその前後に亘る甚しい矛盾・撞着を含む供述をも合わせ考えれば、被告人は本件強盗殺人事件発生の日時・被害者方を誰からも聞かずに自らよく知っていたものとみなければならない。

(2) 被告人の司法警察員に対する「私は山根方の事件後すぐ大阪に帰って天王寺公園でルンペン生活をしていたので私のしたことはまさか判りはすまい、大丈夫だと考えていた。もし調べられるようなことがあっても広島市白島町の者で原爆で家族も全部死んだという心算でいた。それで新聞も見ようとも思わず新聞を買って読んだこともない。しかし私はあれ程のことをしたのであるからあれ以来自分のしたことが気になってならなかったので、あのことを忘れて気をまぎらわそうと焼酎を飲んで許りいた。もちろん前から焼酎は飲んでいたが、あれからは飲む量がうんとふえた。昭和三〇年一〇月初め頃マンホールの件で天王寺警察西門派出署の平井巡査から本署に連行されて部長さんらしい人に調書をとられた際山口刑務所に昭和二七年に行ったと口をすべらしたが、品物を売った先の店がなくなっているとかで調書の途中で午後一〇時頃に帰らしてもらった。その際広島市白島二丁目山根保四一才と所と名前は都合よく嘘を言ってとおったが、山口刑務所と言ってしまったから照会されたら判ると考えそれからは気になっておちおちしておられないようになったので、金さえあれば早く神戸の方にでも逃げようと思い、たしか一〇月一五、六日頃に当時一緒にいた福井シゲノに神戸の方に働きに行こうと思うから金を千円位作ってくれと頼んだことがある。その後一〇月一九日拾った屑を問屋に持って行っての帰り天王寺駅に出て待ち合わせていた福井シゲノと出会ったとき、福井が目で合図して『刑事さん刑事さん』と小声で知らしてくれたので逃げだしたが、一〇米位行ったところにタクシーがあって逃げられなかったため、平井巡査ともう一人の私服の巡査に逮捕されたのである。」旨、「私は昭和三〇年四月終り頃から福井と関係ができて一緒にいたがその間同女から何か悪いことをしておるんじゃないかと聞かれたことがあり、その際詐欺をして前科があると言ったことがある。また、あるときは福井が『あんた夜うなされておった』と聞かせてくれたこともあった。平井巡査に一度引かれてからは特におどおどしていたので福井も私の様子を特別怪しんでいろいろ聞いていた。」旨の各供述は、原審証人福井シゲノの「私は昭和三〇年四月以来被告人と心易くなり茶臼山やガード下などで一緒に暮していた。被告人がマンホールの件で平井巡査に署へ連れて行かれて帰ってから私に『千円作ってくれ、神戸まで行かねばならぬ。お前だけに言うが早く飛ばねばならぬ。』と言ったので私はそれは作るが晩まで待ってくれと言うのに早く作ってくれと言うし、また被告人は平素山根保と名乗っているのに、私に預けたジッセキ(転出証明書の意)には岡野一となっておることなどから不思議に思い平井巡査にそのジッセキを見せた。その後平井巡査から逮捕されることになった。被告人は自分と同棲中寝ていて首に手をやり『悪かった、かんにんしてくれ。』と言って苦しむので、私が起してやると、ため息をしていることがあった。その時は顔が青くなって汗を流していた。そのようなことが四・五回あった。」旨の供述によって裏付けられるところであり、被告人の警察以来の自白の真実性を認定するうえに看過することができない。

(3) 前記(八)・(2)に説示のように被告人が警察で述べた「昭和二九年一〇月二一日朝防石鉄道堀駅構内材木置場から見た黒いような紙のような物に何かぬったもので葺いた屋根」は森岡正秋方の昭和二八年夏に葺いたルーフィンの屋根であり、また(五)に説示のように被告人が警察で述べた「昭和二九年一〇月二四日午後六時頃女の人からパンを買った宮野新橋の店(角の店)」は同年六月中旬に開業したパン菓子類等を販売する石川松埜経営管理の店舗であったことが認められ、これらのことだけからしても昭和二八年五月頃以来山口地方にきたことがないとの被告人の弁解を否定するに十分であり、前掲(四)・(六)の原審及び当審証人三好宗一・同向山寛、原審証人山本高十郎、当審証人西村まさのの各供述の信用性等と合わせて被告人が本件犯行当時山口地方にきていたことを認めることができる。

(4) 被告人の捜査段階における(1)「山根保方でカーキ色の折襟の上衣を取った。」旨、(2)「その服は木綿のよりはよい国防色の折襟で普通の背広よりは狭く折るようになった夏物か合物でさわりのやわらかい感じのものであった。」旨、(3)「その服は山根夫婦の部屋の枕許のあたりの上にかけてあった。」旨(同調書は昭和三〇年一月一三日付であるが、原審証人橘義幸の供述によれば、その前日までの取調メモによって作成されたものであると認められる。)、(4)「その服は大阪の天王寺茶臼山の便所の横の小屋にいた時分、同棲していた福井という焼酎婆が酒に酔うてりん気半分に小屋を焼いた際焼失した。」旨の各供述は、(1)・(2)の点につき司法警察員の捜査報告書の記載、原審及び当審証人木村完左、原審証人須藤玉枝、同山口信の各供述記載、須藤玉枝の検察官に対する供述調書、押収のカーキ色ズボン一着、(3)の点につき司法警察員の「裏付捜査状況報告書」と題する書面の記載、原審証人木下京一の供述記載、(4)の小屋を焼失した点につき原審証人福井シゲノ・同山本高十郎の各供述による裏付けがあり、真実とみるべきである。以上の点に関する原審第四九回公判における被告人の「自分は警察の取調に際し『山根方を出る際鴨居にかけてあった国民服を持って出た』と述べたが、それは当人が曹長であるので、当時国民服は誰も一、二着持っておった筈と思い、ちょいちょい着として、そういうところにかけてあると思っておったので、そう言ったものである。」との弁解はそれ自体不可解で採用できない。なお、以上の上衣は司法警察員検証調書二冊五九七丁裏及び同調書添付第一図に各記載のものとは異なるものである。

(5) 前記(二)に説示のとおり四冊一四四九丁・一四五〇丁・一四五一丁・一四五五丁等の各図面は被告人によって任意に作成されたもので、それらが本件犯行現場の状況に概ね符合し(あらゆる細部の点にまで亘って符合することは寧ろ困難であると考えられる。)、且つまた検察官がした現場検証に際し、それまで全く現場付近に行ったことのないという被告人が何ら遅疑逡巡することなく本件犯行に際しての行動を指示説明し、それらがすべて犯行直後の検証に際しての状況に概ね一致することは、本件認定上容易に看過できない。被告人は原審第五八回公判で「検察官の検証に際しては、前もって検察官に説明して教えられたとおりをそのお気に入るように説明して行ったわけである。」旨供述し、さらに当審最終の第一八回公判で援用の昭和四二年一一月二日受付の上申書中で「以上の検証に際しての指示説明は現場で警察官から暴行を受けやむなくしたものである。」旨主張するが、それらの供述は当審証人中根寿雄の供述のほか原審証人橘義幸・同松田博・同小島祐男の各供述に照らし到底採用できない(検察官から説明して教えられたとおりをそのお気に入るように行ったというのであれば、何ら主張のような暴行を加えられる筈がなく、また如何なる理由によっても検察官の現場検証に際し、警察官が被疑者に暴行等によって指示説明を不法に強要するなどということは経験上からしても考えられない)。

(十四) なお、当審第一五・第一六回公判での補充弁論中の(1)山口警察署取調室の窓にはカーテンが取付けられて講堂その他から室内を見えないようにし、道路の入口には繩張りして通行止の貼紙をし、講堂から右取調室に通ずる入口には新たに扉を設けて通行ができないようにしたことは被告人の訴える拷問事実を推察させるに余りがある(弁護人小河正儀)。(2)昭和三〇年一一月一一日の録音の採取は午後九時から始められて深夜二時過迄かかったものである(全部で六巻あるのに、一巻を聴取するのに約四〇分を要する。)(弁護人小河正儀)。同日警察における取調は午前中から午后一二時近くまで続けられたことは録音テープ第六巻中に「今一一時五分だから云々」という取調官の発言があることからも明白である(弁護人阿佐美信義)。(3)警察の録音テープの缶に午後八時開始の記載があり、その日に八巻録音を採取している。一巻につき三〇分を要するから午後一二時までかかることは算数上明白である(弁護人小河虎彦)。(4)同月一八日採取の録音テープ一一巻には二時を打つ時計の音が聞え、一三巻には「三時頃」と「今晩はよう言うたで。」との発言があることなどから、同日の取調が長時間に及んだことが窺われる(弁護人阿佐美信義)。(5)警察の録音テープの第一巻からの被告人の発言をきくと被告人が極度の疲労をしている状態が窺える(同弁護人)。(6)同月二一日付のテープ第一四巻において取調官は「台所の炊事場に置いてあったことはおかしい。」との発言があるのは柿の渋と庖丁を結びつけるための誘導である(同弁護人)。(7)録音テープ第一三巻中には「金はどの位か、見当で言え。おおよそでよい。なんぼうか言え。こっちにはわかっているが、あんたがいわなければいけない。」と問うている。これに対し被告人は「服のポケットにあった一万円を盗った。」旨供述している(同弁護人)との各点について。

(1)当審証人木下京一・同中根寿雄・同山口信の各供述並びに当審検証結果によれば、山口警察署で本件を取調べた当時は新聞記者の出入が激しく時には取調の邪魔になることもあったことから窓にカーテンをはって講堂側から取調室内を覗かれないようにしたり、通行禁止の札を貼って廊下の通行を制限するなどの措置を講じたことが認められるが、右の措置をもって被告人の主張の拷問事実を推測すべき根拠とはなしえない。(2)原審証人木下京一の供述記載によれば昭和三〇年一一月一一日の取調べは、被告人の申出により午後二時二〇分頃から開始し同日午後四時頃終了したところ、同日午後九時頃に至り被告人の再度の申出により更に取調を始めたためやむなく同日午後一一時過ぎ頃までに至ったことが認められ、同日の録音はその間に採取されたものであることが認められる(一巻の聴取に要する時間は約三二分ないし三五分である。)。(3)警察の録音テープの函(缶はない)に「午後八時開始」の記載あるものは一つもない。(4)同月一八日採取の録音テープ一一巻中には五時を打つ時計の音は聞かれるが(四時を打つ音に聞き間違えやすい。)、所論のように「二時を打つ時計の音」は聞かれない。そしてその後に間もなくサイレンの音が聞えるが、証第二七号中の一一月一八日の記載をも合わせ考えるとそれは五時の終業のサイレンと解される。更に一三巻中には所論のような「三時頃」との発言は全く聞かれない。しかも、証第二七号中の「一一月一九日」の記載をも参酌すれば、右一三巻の録音は同月一九日に採取されたものと認めざるをえない。(5)警察の第一巻からの録音を聞けば、被告人が真実の自白を決意しながらも親や子の身辺に思いを馳せ、あるいは過去の非行に対する後悔の念等が錯そうして極めて切ない心情にあったことが窺われ、聞く者をして涙をそそらせるまで真に迫るものがある。これを被告人が極度に疲労している状態であると聞くのは当らない。(6)第一四巻の録音中には「台所の炊事場とはおかしいではないか」とあって、その前段の問答からみてそれは「台所の炊事場」との言葉の表現がおかしいとの意に解される。所論のように「台所の炊事場に置いてあったことはおかしい」との発言ではない。(7)第一三巻中には「金はどの位あったか云々」の問に対し「まぜこぜで」と答え、更に「まぜこぜでおよそなんぼ位、およそでええ。後で弁当食ったり酒のんだりしたんでおよそでええ。言ってみんさい。およそどの位だったか。」との問に「一はいしろ位。」と答えたのに対し「一はいしろとはどの位か。こちらは判っているんじゃが。あんたの口から聞くということ、これは大事なんじゃ。」と問うたのであって、右のうち「こちらは判っているんじゃが。」というのは「一はいしろとはどの位か。」との意味は「こちらは判っているんじゃ。」との意に解される。所論のように「金はどの位か。こちらには判っているがあんたが言わなければいけない。」との問は聞かれない。また、右の問に対し「服のポケットにあった一万円を取った。」旨の供述はなく、「七・八千円から一万円位あったと思う。」との供述がある。右供述に関し、被告人は当審第一三回公判では「たんすの方から状袋にある七千円を取ったというのはわたしの考えから言うたわけです。」と供述し、弁護人小河正儀の「一万円に近付くように言ったのか。」との誘導尋問に対しては「はい天王寺署で逮捕されたときに、そこの署員がわたくしの手を出させて言うには、それは何とかの波状紋だと、三人組強盗で三六万円口だと言うたわけです。それで私はてっきり三人組で三六万円程やられたんだなとその頃思っておったんです。三人組もあと二人の犯人が出てくるんだと考えておったんです。警察が一万円とすれば七千円位がちょうどいいからそう言ったんですが、私は初め三六万円から二〇万円、一〇万円、五万円と下げていったわけです。そして七千円と。友安警部がお前金もありもせんのに馬鹿らしいことをしたもんだと言われたんで、百姓屋には金がなかったんだと思ったから、七千円はたんすにあったんだと、七百円は財布の中にあったんだと、警察の方が言われたわけです。それでそのように合わせたわけです。」と供述し、昭和四二年二月一〇日受付の上申書中にもほぼ同様の記載があり、さらに当審第一四公判での裁判長の「あんたが七千円いくらの金を取ったということになっているがあの金額はどうして出たのか。」との問に対しては「友安警部さんがお前は金もないのに馬鹿なことをしたと言われるんで、三六万円から少し宛二〇万円、一〇万円と下げていってあの段階に落ついたら、その位だろうと言って拷問がなくなったんでこの位のところに置いておけばいいんだと思うて言うたわけです。」と供述する。以上の被告人の供述の如きは全く理解しえないところであって窮余の弁解としか受取れない(単独犯行として自白の本件につき三人組強盗の金額を持ち出したことは理解できない。)。もっとも警察の録音中には執ようにわたる質問がところどころ聴取されるけれども、それらは概ね被告人が一応本件を自白した(第三巻中で被告人は本件犯罪そのものを全面的に認めている。)のちの細部に関するものであり、犯罪史上未曽有の極悪重大な本件についての被告人(しかも元警察官であった)の自白の任意性を否定しなければならない程のものとまでは認められない。

二  被告人は昭和三〇年一〇月一九日逮捕されて以来窃盗の容疑者として取調を受け同月三一日山口地方裁判所に窃盗未遂罪で起訴され、その頃同裁判所からその第一回公判期日を同年一一月二九日に指定する旨の通知を受けた。しかるに、同裁判所においては同月一四日付の検察官の申請に基き右期日指定を取消し、該期日は追って指定する旨の決定をした。しかし検察官の右申請は専ら本件強盗殺人事件の捜査のためのもので、現に捜査官においてはその後専ら右事件の捜査をし、右期日変更申請の日から一三六日を経過した昭和三一年三月三〇日同事件を起訴するに至った。右捜査は前記窃盗未遂被告事件の勾留に藉口してなされた違法なもので、その間捜査官の手になる被告人の自白調書及び録音もまた違法に帰し、これは断罪の資に供すべからざる旨の主張(弁護人小河虎彦の論旨第一点、この点に関するその余の弁護人・被告人の論旨も同旨。)について。

記録に基いて検討するに、被告人は住居侵入窃盗未遂の被疑事実で昭和三〇年一〇月一九日大阪市内で逮捕され、同月二二日地方裁判所裁判官が発した勾留状の執行を受けて代用監獄山口警察署留置場に勾留され同月三一日右各事実につき山口地方裁判所に起訴されて、その頃その第一回公判期日が同年一一月二九日午前一〇時と指定されたが、同裁判所においては検察官提出の同月一四日付変更申請書に基き被告人の意見をも聞いたうえ、同月一七日付にて右期日指定を取消し該期日は追ってこれを指定する旨の決定をしたこと、その後同年一二月一〇日付で窃盗罪の追起訴がなされ、さらに前記住居侵入・窃盗未遂罪についての勾留が起訴後三回更新されてその最後の期間満了の日の前日である昭和三一年三月三〇日本件強盗殺人罪についての追起訴がなされたこと、前記検察官の期日変更申請は、その申請書には単に「当職において差支のため」と記載されているのみであるが、記録上窺われる当時の捜査の推移から右各追起訴の窃盗罪と強盗殺人罪との捜査のためのもので、しかもこれらの捜査は前記住居侵入・窃盗未遂罪についての勾留中におこなわれ、所論の被告人の自供調書及び録音もかかる捜査の段階でできあがったものであることが認められる。しかしながら、ある事件について勾留起訴の手続をとった後、捜査官がその者を他の事件の被疑者として取調べることは、捜査官において専ら他事件の取調に利用する目的をもってことさらに右勾留・起訴の手続をとったものでない限り何ら法の禁ずるところではないと解される。本件では捜査官が本件強盗殺人事件について捜査中探知した前記住居侵入・窃盗未遂事件についての捜査を遂げ指名手配の結果、大阪市内でルンペン仲間に入り住居不定の生活をしていた被告人(当時ルンペン仲間では「広島のおっさん」と呼ばれていた。)をようやくにして発見逮捕し、右手配の被疑事実に関しそれ自体独立に勾留の理由も必要も十分あったため裁判官に対し勾留の請求をし、且つ起訴の条件も具備していたためこれを起訴したもので捜査官において当初から専ら前記各追起訴事実の取調に利用する目的または意図をもってことさらに右の勾留・起訴の手続をとったものとは認められない。してみれば、検察官が所論のように第一回公判期日の変更を求めたうえ住居侵入窃盗未遂罪について勾留中の被告人を前記追起訴の各事実についての被疑者として取調べたからといって、これを違法とすべき理由はなく、またその取調をもって直ちに自白の強制や不利益供述を強要したものとみることもできない。もっとも、前記検察官の公判期日変更申請の日から本件強盗殺人罪の起訴の日まで一三六日を経過していることは所論のとおりであるが、記録及び捜査官が採取した録音によれば、被告人は山口警察署の取調室で昭和三〇年一一月一〇日夜八時頃その二、三日前から「いかな聖人でもあやまちはある。」などと言いきかせていた担当の司法警察員に対し「この間から説明されていたことは大体判った。実は悪いことをしている。心をおちつけて明日状況を十分に話す。」と言いだしたことに端を発し、翌一一日から同年一二月二五日までの間(その頃はまだ住居侵入・窃盗未遂被告事件の第一回勾留更新前で、しかもさきに指定の第一回公判期日に右事件の審理が開始され、途中追起訴の窃盗事件が併合されたと仮定した場合、各事件の内容等からみて、それらの審理判決には通常すくなくともその頃まで日時を要したものと考えられる。)本件強盗殺人罪を自白し、これを犯すに至ったいきさつや、その態様並びに犯行後の状況につき詳細供述し(これにつき捜査官においては録音三〇巻を採取し、自供調査一〇通作成。)、しかも事案の重大複雑なるに加えて、その供述は大筋において変りないとしても、ところどころ虚言を交えてのものであるため(一度否認しかけた。警察録音一〇巻)、これが裏付に困難を極めたことなどの諸事情を合わせ考えると、右期間の取調をもって不当に長期に亘ったものとは認められない。さらに、その後起訴の日まで検察官により供述調書七通、検証調書一通の各作成と録音三巻の採取とが行われ、司法警察員により警察の捜査の補充として供述調書五通が作成されたが、それらの自供内容はいずれも犯行の動機順序等につき若干の修正を加え、あるいは一部につき一層具体的に詳述はしているものの、実質的には従前の自白の繰り返しであり、特にそれまでの勾留により新たに生じたものとは見られないので、これらもまた不当長期拘禁後の自白とはいえない。一方、原審裁判官としては最初の住居侵入窃盗未遂罪の起訴状に「余罪追起訴の予定である。」と記載された検察官の認印ある符箋が貼付されていたことから、追起訴をまってこれを併合審理し一個の判決をする方が被告人の利益であると考え(中間確定判決があることについては当時予想されえなかった。)、前述のように被告人の意見をきいたうえ検察官の申請をいれて一旦指定した第一回公判期日を取消し、これを追って指定することとしたものであることが容易に窺われるのである。そしてこれがため結果的には最終追起訴まで所論の日時を要したとしても、追起訴にかかる事件の重大複雑であることと、前述の如き自供経過とこれに対する裏付の困難さ並びに併合審理による被告人の利益を彼此考量すれば、原審裁判所の以上の措置には必ずしも失当であったとはいいきれないものがある。以上の理由で所論は採用できない。

なお、各所論は捜査官は本件強盗殺人罪につき取調中被告人の申出による弁護人の選任を妨げた旨主張するが、被告人は原審第四九回公判で「自分は窃盗未遂で起訴された際裁判所から弁護人は国選にするか私選にするかとの問合わせの書面を絶対に貰っていない。警察官に対し、家には父も母もおるので金は何とかするから小河先生を呼んでくれと言ったが、警察官は金がない者が弁護人を雇われるわけがないと言って聞き入れなかった。」旨、「弁護士さんを雇いたいんだが金がないから困るというようなことを自分の方から申し出たことはひとつもない。」旨、当審第一七回公判では「自分が小河弁護士さんを頼んでくれと警察に申し出たのは昭和三〇年一〇月下旬頃からである。」旨各供述しながら、昭和三〇年一一月一日付弁護人選任に関する通知書及び照会書中の回答欄には「唯今は自分は金が無い為裁判所で弁護人を御願ひ致します。」、昭和三〇年一二月一二日付弁護人選任に関する通知及び照会書の回答欄には「私は貧困して現ざい金が無いので裁判所で弁護人を御願ひ致します。」(同回答欄は昭和三〇年一二月一八日付。)、昭和三一年三月三〇日付弁護人選任に関する通知及び照会書の回答欄には「裁判所で弁護人を選任して下さい。」との印刷の文字の上に○印を付し、その理由として「貧困のため」(同回答欄の日付は昭和三一年四月七日付。)との各記載がある(原審第四九回公判での被告人供述によれば、以上の各回答欄の記載は被告人によってなされたものであると認められる。)。しかも、当審第一三回公判では被告人は「昭和三〇年一〇月三一日起訴の住居侵入窃盗未遂の事件について弁護人選任に関する照会書が来た際自分は『官選弁護人をお願いします』と回答したが、それはその時期には自分は強盗殺人事件について嫌疑をかけられているということがまだ判らなかったからである。」旨供述し、一方被告人の同公判での供述によれば「自分が仁保事件についての嫌疑をかけられているということを知ったのは昭和三〇年一一月四、五日か五、六日頃である。」旨、「仁保にはおやじもおるしわしが一口いえばすぐ金ぐらい出してくれるから強盗殺人の起訴につき最初から小河先生を私選に頼むよう警察に頼んでおった。」旨、また、阿左美弁護人の「警察官の方からむしろ積極的に、あなた弁護人を選任しなさい、選任することができるんだと言われたことはないわけですね。」との問に対しては「言われたかもしれませんが、わたくしは自分で知っておったから私選弁護人をお願いしますと強調したわけです。」と答えるなど被告人の弁護人選任に関する供述には矛盾撞着があり、且つこれに当審証人中根寿雄の「被告人の取調中誰からも弁護人選任に関する申出も相談も受けたことはない。」旨の供述を合わせ考察すれば、前記主張は到底採用できない(起訴事件に対する弁護人選任は第一回公判期日前に公判準備に支障のない期間になされればよいと考える。)。

三  原田弁護人は当審第一五回公判で裁判所に対し職権の発動を促し、仮に被告人が本件強盗殺人罪の真犯人であるとしても、事件后一一年余を経過していることなどの理由から被告人に極刑を科すべきでない旨主張するが、本件の態様・被害状況などからみて、職権により原判決の量刑につき再考を加うべき余地があるものとは認められない。

四  よって刑事訴訟法第三九六条に則り本件控訴を棄却することとし、なお原審及び当審の各訴訟費用の負担免除につき同法第一八一条一項但書を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡辺雄 裁判官 高橋文恵 裁判官 高橋正男)

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